3月2日コーセー創業の日 ~創業から79年受け継がれる創業者の意思~ 2025.03.03

3月2日はコーセー創業の日です。今年で創業79年を迎えました。戦後まもなく、”化粧品のチカラ”で日本を元気にしたい、人々に夢と希望を与える化粧品が必ず日本復興の一助となるという強い信念を持って、50才※で小林孝三郎が起業しました。今回は、創業者小林孝三郎の創業の理由と、そこにかけた思いをご紹介します。
※数え年
コーセーの創業を語るには、まず、創業者小林孝三郎(以下、孝三郎)と化粧品との出会いについて触れなければなりません。

化粧品メーカーの高橋東洋堂における33年

孝三郎は、1897年6月29日に、茨城県岩井市(現在の坂東市)に生まれました。孝三郎は家庭の事情もあり、我孫子尋常高等小学校(現在の我孫子市立我孫子第一小学校の前身)を卒業後に単身上京し、他社からの受託を主とした化粧品メーカーの高橋東洋堂で働きはじめます。これが孝三郎と化粧品との出会いでした。

1912年に、14才9か月という若さで高橋東洋堂に入社すると、最初の10年は製造部門での仕事に携わり、化粧品の開発や香水の調香をすることもありました。ここでの経験が、やがて営業としての活躍に役立つことになるのです。1921年に、高橋東洋堂は『アイデアル』と『センダン』という自社ブランドの発売に踏み切りました。その際に、孝三郎は製造部門から販売部門に異動を命じられることになりますが、製造部門時代に培った豊富な商品知識を生かした営業活動で、たちまち営業としての才覚を表し始めます。そして、40代を迎える頃には、代理店や販売店の人々から「販売の神様」と称されるほどになっていました。そして、1939年には、販売部門の最高責任者にまでなっています。当時の孝三郎は、1か月のうちおよそ20日間も全国の化粧品店を出張で訪れるような生活を5年間以上も続けていました。日本各地へと営業に出向いていたため、駅名だけでなく、主な時刻表までそらんじていたというエピソードが残っています。「販売の神様」と呼ばれたのは、孝三郎が、化粧品に関する知識が豊富だったことに加え、いつでも販売店に寄り添って、共存共栄を願い活動していたからです。コーセー創業後もその思いは変わらず、孝三郎が大切にしていた近江商人の言葉である「三方よし」(お客さま、従業員、取引先様)という言葉を引用し、社員に対しても取引先との共存共栄を唱えていました。

孝三郎が販売部門へと異動になった1920年代前後は、化粧品メーカーも化粧品販売店も乱売に翻弄されていた時代でした。乱売は、単なる安売りとは異なり、時として適正な利益を無視した値引き合戦に陥る場合もあり、経営を圧迫してしまうことも多くありました。それに頭を悩ませていた孝三郎は、都内のある化粧品店でドイツ化粧品の「モンド」と出会います。ここでは、数十店の販売店同士が「モンド会」を結成して、正価販売に徹しようと協定を結んでいました。これを知った孝三郎は、正価販売のための組織づくりに意欲を見せるようになります。そして、1924年、高橋東洋堂の経営陣に対して、同じような会を組織することを提案しました。これが「アイデアル会」の結成です。この経験は、後の販売店の組織網「コーセー・リングストア」システムにも繋がっており、コーセー創業後においても重要な役割を果たしました。

やがて第二次世界大戦における空襲により、高橋東洋堂の所有する建屋なども火災で焼失するなどして、会社は一時解散となりました。戦後の混乱の中でも、変わらない人々の化粧品への欲求を見た孝三郎は、「理想の化粧品販売」への決意を新たにします。
そしてついに、化粧品業界に身を投じてから33年、数えで50歳のときに、コーセーを創業しました。

コーセー創業の意志

コーセーを創業した1946年の日本は、戦後から1年足らずと、まさに復興に踏み出したばかりの時期でした。当時の東京では、現在のようなビルが立ち並び、インフラの整備された姿など想像することすらできないほどの焼け野原が広がっていました。食料も物資も不足し、人々の生活は混迷を極め、野菜や魚、生活用品などを非正規で売買、取引される「闇市」も存在する状況です。人々の生活は、とどまることのないインフレに見舞われ、闇市などでの物価は、1945年~1949年の間に7~8倍程度になったとも言われています。拡大する復興需要に供給が追い付かず、ますます「闇市」の取り引きは盛んとなり、次第に粗悪な品質で価格に見合わない品が流通するようになりました。

孝三郎は、そんな不良品がヤミ値で取り引きされる時代を憂い、安全かつ安心して使える高品質な化粧品、真に価値ある化粧品を、日本全国どこでも同額かつ良心的に相応の価格で提供することにこだわりました。そして、人々に夢と希望を与える化粧品に限りない情熱を込めて創業し、必ずや化粧品が戦後の日本復興の一助になるという強い信念を持ち続けていました。

創業時に取引先様にお示しした『取引協約規定趣意書』には、このような言葉があります。

「偖て(さて)我が化粧品界が新日本建設の為
重大な役割をもつ事は各位既にご承知の通りで御座います・・・」

化粧品が必ず戦後の日本経済の復興を後押しする、という大義を表明した、コーセー創業の意思を示す言葉です。

3月2日を創業日に定めた理由

コーセー創業に、日本経済の復興を夢見た1946年、政府はインフレ対策として金融機関の預貯金を封鎖し、旧円から新円への切り替えを実施しました。
孝三郎が3月2日を、コーセー創業の日と定めたのには、その金融緊急措置が大きく関係しています。政府が打ち出したこの金融緊急措置令は、前述したインフレを回避するための措置です。金融機関にある個人、法人の預貯金をおろせないように封鎖し、流通しているお金を制限しました。さらに、2月25日に発行される新円のみの使用を許可して、3月3日からは旧円の流通も禁止しました。加えて、一定額しか引き下ろせないようにし、その金額も一か月あたり、世帯主300円、家族一人につき100円までとしました。1946年の国家公務員大卒初任給が540円だったので、それを元に現在の貨幣価値に換算すると、世帯主が約12万円、世帯員が1人あたり4万円くらいと考えられます。お金をあまり流通させず、個人でも使えないようにすれば、安いものを買わざる得なくなり、インフレが抑制されるという狙いです。

このように個人の場合は、預貯金が全て封鎖され、給料としても新円でもらえる額は500円までという内容でしたが、新たに法人をつくる場合は、3月2日までに法人登記をした事業者に限って、事業に必要な費用は資本金の範囲内で引き出すことが認められていました。
そこで、孝三郎は、高橋東洋堂の退職金と戦災で焼けた自宅の火災保険などを元手に、法人登記ギリギリのタイミングの3月2日に資本金10万円で社員4名の小林合名会社をつくりました。ついにコーセーが誕生したのです。1948年には資本金を150万円に増資し、株式会社小林コーセーが設立されました。

事業家の父から受け継いだ精神

孝三郎の父伊三郎は、孝三郎が子供の頃、茨城県の岩井市(現在の坂東市)で、呉服商の番頭として活躍していましたが、そのお店の跡継ぎが成人したのを機会に退き、タバコの製造工場をかなり手広く営むようになります。ところがまもなくして、タバコは国の専売事業となったため、生産を中止せざるを得なくなってしまいます。しかし、商才にめぐまれただけでなく、進歩的な考えを持っていた父は、次に醤油の製造をはじめ、たちまち事業化に成功しています。父伊三郎は、その呉服商で多くの番頭を育て、独立させてきましたが、そのうちの一人に伊三郎の縁で奉公した甥の小室新之助という人物がいます。やがて、伊三郎は新之助を誘い、共同出資で東京に化粧瓶、薬瓶を販売する会社を設立しています。

そのように起業精神の旺盛な父を持った孝三郎に、自身も将来は事業家になろう、という漠然とした意識が培われていったのは、自然なことだったのでしょう。

 

取引先様との信頼関係と東京・王子での創業

孝三郎が高橋東洋堂での33年間で築き上げてきた信頼関係は、創業時のコーセーを支える財産となります。
創業時から何より品質を大切にしていた孝三郎は、原料調達に努力を惜しみませんでした。当時はとにかく物資が手に入らない世の中でしたが、ある原料メーカーに、孝三郎が高橋東洋堂の営業時代に親交のあった人物が資材副部長として在籍していたことにより、原料供給の突破口が開けたのです。

当時、その原料メーカーは東京の北区尾久にあり、そこから数キロ程度の距離にある北区王子であれば機動的に原料調達ができること、また当時はまだ工場建設の許可が下りるエリアだったということがあり、創業の地に選びました。今のようなトラックはなく、原料は大八車に載せて運んでいた時代。そのため、製造現場と原料会社が近くにあることは譲れない条件の一つだったのです。
その他にも「小林さんが事業を起こすなら信用できる。優先的に提供しよう。」という企業がいくつもありました。高橋東洋堂時代に「販売の神様」と呼ばれながら、孝三郎は常に取引関係にある全てのパートナーの方々を大切にしてきました。それがコーセーに対する信頼となり、そのような多くのパートナーによってコーセーのモノづくりは支えられ発展します。
このあらゆるステークホルダーと良好な信頼関係を構築しようとする姿勢は当社のDNAとして脈々と受け継がれており、現在では、当社の価値観である『KOSÉ Beauty Partnership』としても表現されています。

『KOSÉ Beauty Partnership』:https://corp.kose.co.jp/ja/sustainability/plan/stakeholder/

小林孝三郎が、日本の復興を願い、化粧品で人々に夢と希望を与えたいと起業したコーセーは、今年で79年、来年80年を迎えます。現在では、日本に留まらず、世界中の人々に化粧品で笑顔になってほしい、幸せになって欲しいと考え、68の国と地域で事業を展開しています。“一人ひとりのきれい”にきめ細かく寄り添うアダプタビリティの考え方に基づき、「3G」(グローバル、ジェンダー、ジェネレーション)を合言葉に、これからもコーセーは化粧品の可能性を追求していきます。そして、誰一人取り残されず、笑顔と自信に満ちあふれる、心が豊かな社会の実現に寄与していきます。

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